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安土桃山時代

1590年(天正18年) 豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・宇都宮国綱や佐竹義重らとともに小田原城を総攻撃した。一般的に小田原征伐(最近は「小田原合戦」が主流)と呼ばれるこの戦役において秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれを以って完成した(宇都宮仕置)。
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戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏(藤原北家宇都宮氏流)が居城した。一方北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っている。

1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられた。

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2009年11月13日 13:36に投稿されたエントリーのページです。

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